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2017-05-27

Essays #20 / 分断と連続

essay_20

Text written by Komatsu Hiroko

「断つ」とは「1.つながっているものを切り離す。切断する。2.これまで続いていた物事・関係などをやめて終わりにする。つながり・縁を切る。断ちものをする。3.終わらせる。尽きさせる。4.道などをさえぎって通わなくする。」ことを指します。写真を撮り、発表するということには、この「断つ」ということが深く関わってくるようです。
撮影対象は(それが不完全であっても)完全な状態でそこに在ります。わたしは対象を現実から「断」って、つまり「切り離し、切断して」フィルムに収めます。写真に撮られた対象は「これまで続いていた物事・関係などをやめて終わり」にさせられてフィルムに定着され、プリントされます。そして展覧会場に大量に配置されて撮影対象がかつて在った場所での意味や時間、関係性などから切り離され、さらにはわたし自身の撮影・プリントといった作業にまつわる意味や時間、関係性などからも切り離されて構成されます。この構成によって展覧会場には全く別の物事・関係、さらには時間がつくり出されることになります。
展覧会場においては、鑑賞者が展覧会場に足を踏み入れたときから始まる、見ることの連続した時間の流れを分断することを意図して構成していることは既に書きました(Essays #10/時間)が、会場を構成している大量の写真つまり大量の分断に接すると言うことは、ジャック・ラカンの「中断された活動は、完結した活動よりも連想的な素材を生み出す」という言葉に見られるように連続する中断を体験することであると考えることができます。また分断とは少し異なりますがベルグソンのいう「純粋持続」という言葉も想起されます。
空間化とは数学的な抽象であり、測定可能・可逆的・均質的・受動的なものとなって、それはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうため、純粋持続とは空間的に表現できるものではありません。純粋持続こそが自由の源泉とされます。通常、自由といえば、選択の自由を意味し、例えばひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされます。しかし純粋持続ではそのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではありません。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在」において不断かつ連続的に創造されるものであるからとされます。自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為であるといえます。
つまり鑑賞者の連続した時間を分断する意図はありますが、分断それ自体を目的としているのではなく、そのひとりひとりの意識において空間化されない固有の連続となることを期待します。