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2016-04-08

Quotation #9 / 武器と言説との等価関係

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M・フーコー編著 「ピエール・リヴィエール 殺人・狂気・エクリチュール」より引用
Text quoted from “Moi, Pierre Rivière, ayant egorgé ma mére, ma soeur et mon frére” by Michel FOUCAULT

“こうした変換を通じて、テクストと殺人は、互いに相手に対して自らの位置を移動する。より正確にいえば、それらは互いに相手を動かし合うのである。はじめ手記の冒頭に来るはずだった殺人の物語は、手記のなかに沈み込み、消えてしまう。殺人の物語は、もはや殺人については語らないテクスト、殺人の物語によって後から密かな変更を加えられることになっているテクストによって、隠されるべきものとなるのだ。そして最終的に、殺人の告知は、手記の背後に置かれるばかりではなく、殺人自体の後ろに置かれることになるのである。これに対し殺人の方は、逆向きの動きによって少しずつ手記から離脱した。つまり、手記の執筆後に行われるはずだった殺人、ただその投函のきっかけとなるだけのはずだった殺人が、書かれてはいないけれど殺人の物語をあらかじめ一言一句定めていた決定に促され、解き放たれて、結局それだけが一番はじめに起こったのである。
結局のところ、テクストと犯行とが相次いで占める複数の位置は、殺人と物語から成る機械仕掛の活動と生産の諸局面にすぎない。殺人は、いわば、言説という器械のなかに最初は隠されている一つの弾丸のようなものであり、その弾丸を発射する動作のなかで、この器械は後退し、不要になってしまうのである。これを「カリベーヌ」もしくは「弓銃(アルバレートル)」のメカニズムと呼ぶことにしよう。この名は、リヴィエールが発明した器械、ひねり出された言葉、矢を発射する道具、雲や鳥を射る武器、死をもたらし動物を木に釘付けにする造語を、同時に示すものである。
武器と言説との等価関係は、犯行後の殺人者の放浪のなかにかなり明確に表れている。実際、殺人を成し遂げた後、リヴィエールは、以前誓った通りには犯行を表明しない。彼は逃亡するのだ。ただし本当に身を隠すのではなく、ずっと森と街の境界で逃げ回る。一ヶ月のあいだ彼が人目につかなくなったのは、彼が策略を用いていたためではない。そうではなくて、それはおそらく、親殺しとしての彼の存在に固有の特性のためか、あるいは、彼に行きあった人々の目が徹底して眩んでいたためである。そこで彼は、弓銃(アルバレートル)を作ろうと決意する。「それは私が演じたいと思っていた役柄に役立つ」かもしれない、と。彼が腕に抱えているこの弓銃こそ、紋章にして自白であり、死の武器にして道化杖である。奇妙な暗黙の了解によって彼をそれと見分けさせるのは、結局この弓銃なのだ。「ほら、見ろよ、弓銃を持っている奴がいるぞ」。弓銃は、いわば無言の犯行表明であった。犯罪とともに醸成された陰鬱な言説、犯罪を物語ることによってそれを栄誉あるものとすべく定められたその言説に、この弓銃がとってかわったのである。
弓銃がこうした役割を果たすことができたのは、ひょっとしたら、ピエール・リヴィエールの遊び、彼の想像、彼の演技、彼が「観念」や思想と呼んでいたものが、ある日(それは一人の娘がやって来て彼に口づけした日だろうか)その姿を変えて、言説 – 武器となり、詩 – 悪罵となり、言葉 – 弾丸の発明となり、アンセエファレ機となり、その名がこしらえられその死骸が埋葬される死の器械となり、以後絶え間なく彼の唇から飛び出しその手から発射されることになる弾丸のような言葉になったからかもしれない。”