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2016-06-18

Quotation #19 / 苛酷な断絶

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石原吉郎『海を流れる河』(花神社、1974)より引用

僕らが一つの場面に遭遇して強い関心を持つのは、それがかならず一つの物語をもつということ以上に、それが同時に無数の物語をもつということのためである。そのような同時性に対する関心が成立するのは、その物語を自己と関わるものとして見るという実存的関心の故であって、作品と読者が真剣に結びつく個所は、その一個所を除いてはありえない。それ以外の結びつきはもはや好奇心でしかない。
この場合、俳句は否応なしに一つの切口とみなされる。俳句は他のジャンルに較べて、はるかに強い切断力を持っており、その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与えるのである。そこでは、一切のものは一瞬その歩みを止めなければならない。「時間よ止まれ」という声が響く時、胎児は産道で息をひそめ、死者に死後硬直の過程は停止する。愛しているもの、憎んでいるもの、抱擁しているもの、犯罪を犯しているもの、一切はその瞬間の姿勢のままで凍結しなければならない。そこでは、風景さえも一つの切口となることによって、物語をもちうる。
このようにして切りとられた一つのカットは、初めに述べたスチール写真のように、いわば一つの「奇妙な」場面である。その切りとり方が真剣であればある程、人にはそれが奇妙に難解に思われる。しかし、この奇妙さと難解さは、実は逆に読者を作品に引きよせ近づける力なのであり、奇妙さとし、難解さとして大胆にこれを受けとめるよりほかには仕方のないものである。
キャパの「最後の戦死者」という写真に感動した人は意外に多いであろう。そこでは、一瞬前に確かに生きていたはずの兵士、たしかな、はげしい、しかしどこか絶望的な目の一角でかくれている敵を狙っていたはずの若い兵士はもはやどこにもいない。仰向けに床に倒れて、一瞬前の自己ともはやいかなる関わりをも持ちえぬ一個の重苦しい物体があるだけである。カメラはこの二つの瞬間を「連続」として捉えることはできない。しかし、カメラ・アイと呼ぶこのシャープな機能の持つ限界が、逆に僕らに「連続」ということについて深い洞察と感動をよびおこすのだ。
一瞬前の姿勢と一瞬後の姿、おそらくは十分の一秒もへだてていないと思われるこの二つの場面の間にある苛酷な断絶はカメラによって明確にとらえられる。カメラがとらえたものは二つの場面ではなく、実はそのあいだにある、もはやいかなる力をもってしても埋めえない裂目である。だから、それは解決としてとらえられているのではなくて、もはや解決というものを永遠に放棄したかたちでとらえられているのだ。もはやいうまでもないことだが、カメラと俳句とのあいだには奇妙な機能的類似がある。というよりは、カメラと現代の俳句は、その方法において本質的に同じものである。