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2016-07-02

Quotation #21 / 現実逃避

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マーク・ロスコ『ロスコ 芸術家のリアリティー美術評論集ー』(中林和雄訳、みすず書房、2009)より引用
Text quoted from “Rothko The Artist’s Reality Philosophies of Art” by MARK ROTHKO

芸術はしばしば行動から逃避するための形式だと言われてきた。芸術家は世間の諸々の実際的なことをあまりに煩わしいと感じ、誠実に活動することから身を引いて、想像の世界に身を隠し、この煩わしさから逃れようとしている、と言われてきた。本当の意味での行動とは、普通、自身の身体的な欲求を満足させようとすることだと思われている。身体的な欠乏や不快を取り除こうとする試みこそがまっとうな現実主義的行動とされている。生活水準が向上するにつれ、人間の身体的欲求を満足させるために求められるものの数は著しく増大してきた。かつては、必要なものと言えば、飢えを満たすに充分なだけの食糧、厳しい天候から身を守るための住処、肺炎にならないための衣服であった。けれども今日では人はタイル張りの浴室、衛生的な洗面設備、真空掃除機、見てくれのよいスーツがなければ生きられない。女性は季節が変わろうが変わるまいが際限なく服を着替え、時間を節約するために無数の小道具を使わねばやっていけない。節約された時間は余暇に回される。余暇はもっぱら感性の欲求を満たすことに費やされることになるので、それは飾り立てられている必要がある。何より魅力的でなければならない。こういった無数の小道具を作ったり流通させたりする営みは、次第に、もともとは最も基本的な衣食住の供給だけで満たされていた人間の、現実主義的な欲求の領域に属するものと見なされるようになってきたのである。物的欲求を飾り立てるこれらのものを生み出したり手に入れたりすることに人生を費やしている人は誰であれ、行動的な人生を送っている、ということになった。そして、私たちの国全体が、この種のリアリティを求めて、勝利と悲劇、間断ない苦痛の連続の物語を繰り広げていると言えよう。
このような姿勢の基本にあるのは、人間の存在の中核にあるのは身体的な欲求であり、他の類の欲求があるにしても、それらは身体的欲求が満たされれば自ずと満たされるはずだとする考え方である。しかしこの考えは、どんな商品であろうと簡単に自分のものにすることができるような社会階層の人々の方が不健康であることが多いという事実と矛盾している。これらの階級の人々は、他の誰よりも神経性の動揺、仮想の不安に苦しめられるのであり、最近の医学によれば、それらはしばしば、原因がはっきりしている「本物の」病気よりも恐ろしく、また治りにくいものなのである。低い社会階層の人々は、こういった商品のすべてが社会全体に行きわたることを望んで苦労していてもよさそうなものだが、実際はより健康的に生きている。なぜか。これらの人々は、理想を抱くことによって、身体的な欲求に劣らず重要なある欲求を満たしているからである。ここでは理想主義が、他の自己表出的行動と並んで、ひとつの行動の形式となっているのである。それなくして人は健康を保つことができない。
芸術もまたこのような行動なのである。それは理想主義と類縁性を持つ行動形式であり、両者とも同じ衝動から発するものである。この衝動を何らかのかたちで満足させることができない人は、身体的欲求をうまく満たすことができない人同様、現実から逃避しているということになる。さらに言えば、工場の機構を回転させ続けることに人生のすべてを費やしてしまい、有機体である人間としての他のどんな欲求にも向き合う時間やエネルギーがまったく持てないような人は、自分の芸術を作ろうとしている人よりもはるかに逃避主義的なのである。なぜなら芸術を目指す人の方は、物質的な必要にも順応しているのであり、生きるためにパンが必要であることをよく知っているが、一方の人々は、人がパンのみで生きられるものではないことを理解できないのであるから。
芸術は行動の一形式であるだけではない。それは社会的な行動の一形式である。芸術はコミュニケーションのひとつのかたちであり、あらゆる行動形式同様、環境の中にあってはじめてその効果を発揮する。そうすると、社会的行動の手段としての芸術の効用は、それが何人の人に影響を及ぼすかによってはかられるかにも見えてくる。
そのように考えたならば、マックスフィールド・パリッシュは最も社会的な芸術家であり、社会から最大の尊敬を受けるに値する人だということになってしまうが、言うまでもなく、このような尺度によるならば非常にばかげた結論が導かれることになる。芸術家が自分にしか理解できない作品を作った場合でも、彼は一個人としての自分自身には既に何かを与えているのであり、それをもって既に現実の社会に寄与しているのである(私たちが食べるのは、自らのためでもあるが、それはまた社会のためともなる、というのと同様である)。つまり、それぞれの個人が社会の中での自らの振る舞いをよりよいものとすることで社会は常に改善されるのである。いかなる社会観によるにしろ、社会の繁栄をはかる経験的な尺度はその構成員の幸福の総和なのであるから。社会への刺激のひとつひとつがどれほどの効果をもたらすかは予測できない。一分間足らずの刺激が広範に行きわたり、これ見よがしの効果を伴う他の何千もの刺激が百年以上かけても及ぼせないほど重大な影響を与え、一瞬にして社会の進路を変えるようなこともある。個人の欲求の充足はそれゆえ決して逃避的な行動形式ではない。それは、もっぱら他人の欲求に関わろうとする博愛主義や理想主義の無数の行動よりも自然な行動に近い。様々な個人が持つ欲求のいずれが最も社会的に重要であるかを判別できる人などいないのである。