toggle
2016-07-23

Quotation #24 / 来たるべき生物

the-brand-of-prevention_20160723

小泉義之『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために』(講談社学術文庫、2015)より引用
Text quoted from “Philosophy of Deleuze” by Koizumi Yoshiyuki

キリストが出現するや、私たちもそんな具合に変身するだろうと感じる。キリストの奇蹟が、絵画に描き出せるような自然現象であるならば、私たちもそんなフィギュアに自然に生い立つと感じるのである。実際、グレコに限らず、優れた宗教芸術は、フィギュアを描き出すことに成功していた。たとえば彫像である。彫像は死体に見えることがある。正確には、何か高き力によって魂を吹き入れられて再生した死体に見えることがある。大地の子(プラトン)だ。もし宇宙が自然に逆回転を始めたら、自然に大地の中から死体が甦って、そんなフィギュアになるだろうと感じるのである。芸術家は、神のおかげで、来たるべき生物を彫り出すことに成功したのである。
「〈神がいなければ、すべてが許される〉などと言うべきではない。まさしく反対である。神とともに、すべてが許される。道徳的に許される。暴力や汚辱には、いつでも聖なる正当化が与えられるから。しかし、それだけではない。美的に許されるのだ。こちらのほうがはるかに大切である。」(『フランシス・ベイコン』)。
神は死んだ
しかし現代の画家は、宗教の時代には生きていない。もう宗教画家のように描くことはできない。第一に、万物を自然に引き上げる神を信じることができなくなった。これは定向進化論の破綻と関係している。生物の進化に目的が設定されているなら、目的に向かう方向に沿った変形は自然に思えるはずである。人間の脳が肥大化して手足が衰退すると決まっているなら、来たるべき生物を描き出すのは容易である。人工生命の進化に定まった方向があるなら、アンドロイドやサイボーグのフィギュアを描き出すのも容易である。しかし自然の進化にも人為的な改造にも、目的や方向はない。神は死んだのである。第二に、変形を自然なものに感じさせる宗教的解読版は通俗化した。天使・悪魔や天国・地獄の図像は、世俗化されてクリシェになっている。来たるべき生物を描き出しても、凡庸な繰り返しにしかならない。第三に、写真の影響がある。写真は、再現芸術ではなく創造芸術である。写真は、私たちのものの見方を創造する。しかも写真は氾濫しているために、何を見ても、写真のようだといった感じを拭えない。どんなフィギュアを描き出しても、写真で人為的に製作可能なものの一例にしか見えないから、既視感を拭えないのである。
現代において、自然な怪物、自然なフィギュアを描き出すことは不可能に見える。そして、フィギュアに関しては、写真や映画に比べても、絵画は第二芸術の地位に位置すると言わざるをえない。それでもドゥルーズは、ベイコンだけはフィギュアの創造で成功していると評価する。