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2016-08-06

Quotation #26 / 暴力の配備

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酒井隆史『暴力の哲学』(河出文庫、2016)より引用

「暴力はいけません」というモラルなら、だれでも唱えることができるし、じっさいに、わたしたちの身のまわりにはあふれています。ブッシュ元大統領だって、核武装を唱える日本の政治家だってそういうはずです。むしろ、「暴力はいけません」といいながら、「だから暴力には暴力を」と、より大きな暴力の配備を正当化しているのがこうした人たちなのでしょう。「暴力はいけません」という言表は、決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養うことをねらったものではないとおもうのです。そもそもこの言表は逆説をはらんでいます。暴力はいけない、だから、暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者の抑止が必要だ、だから暴力もやむをえない——このような暴力の肯定に帰着する言表の連鎖を、「暴力はいけません」という言表はけっして排除するものではないのです。
しかもしばしば(とりわけ近年では)、「暴力をふるう者」は「暴力をふるいそうな者」へと拡がって、現実には暴力が生じていないところに暴力が生じそうだからという理由で暴力がふるわれているという奇妙な事態があらわれてくることもよくあります。極端にまでいけば、「暴力はいけません」と叫びながらふるわれる凄まじい暴力しか現実には存在しない、という倒錯した事態もありえます。つまり、このような「非暴力」のモラルは、好戦的でしばしば残忍ですらある暴力への忌避感どころか、むしろそのような暴力を許容したり促進したりする感性を濃密にはらむことさえあるのです。いま流通するようなかたちでのこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、むしろ、この世界に充ちているさまざまな力を感受し腑分けする能力をつぶすことにあるのではないか。そう感じることさえあります。