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2016-08-13

Quotation #27 / 領域の境界線

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菅木志雄著作選集『領域は閉じない』(横浜美術館、1999)より引用
Text quoted from “Spheres Will Not Be Closed” Selected Writings of SUGA Kishio

個々のものは、単純に見えながら、根底をさぐると、実に複雑な様相をしているものだというのが、わたしの実感である。たしかに一見すれば、それがカタチがあり、機能が明確であったりすると、ヒトは、<これはAである>とか<Bである>とか、かんたんにいうことができる。たとえ、見えないものでも現実の認識に即しているものであれば、その存在性についてのべることができる。
ひとつのもの(たとえば石)へのアプローチの仕方は、ヒトそれぞれでちがう。ちがうということを基準にすると、それはふたつのことが考えられる。ひとつは、アプローチをするヒト自身がだれひとりとして同じ思考をしていないということである。もうひとつはものそのものが、決して同じ在り様には見えないということである。そしてこのふたつの事柄がどのような内実につながっていくかというと、前者は、人間のもつ世界観の在り様をあきらかにするものであるし、後者は、実体物によってできあがっている場の存在に、いいかえれば、自然風土のリアリティーにまで連結していく性質のものである。モノをつくるときには、もちろんそのどちらも無視することができない。が、しかし、このふたつの事柄だけを基準にして、モノをつくっているわけではない。むしろ、別のことが加味されていることを、わたしは感じるのである。その感じは、かあらずしも具体的にモノのカタチを現していくばかりではなく、自分の生きかたやものの見方全体にかかわっているもののようである。ヒトは<生きかたやものの見方>について言及すること自体が、<世界観>をうんぬんすることなのだと、いうかもしれない。そのことは、わたしも理解しているつもりである。よくモノをつくるときに「表現するのは世界観を表すことなんだ」ということがいわれる。わたしは長い間モノをつくってきた経験から、それを「ちがう」という気はない。がときには、<世界観>とかんたんにいうけれど、それはどんな内容をもって、どんな次元のもので、人間のどの部分に巣くっているものなのか、考えてみてもよいのではないかと思う。なぜあらためて、このようなことをもちだすかというと、わたしは、最近モノをつくったときに、他人には、決してわからない領域とわかる領域がはっきりあるのではないかと思うからである。カタチがある以上、さらにまた、少なくともヒトに見せるために表現して、モノをつくるなら、できるかぎり、<理解>できるようにしてやろうと、(ときには心ならずも)考えるときがあり、実際にそのようにするため努力することがある。極力組み立てを単純化し、なにを目指したかはっきりわかるようにコンセプトを表示してつくる。そうするとたいがいの場合、それがどんな表現を目指したものなのか理解する情景が見られる。ところでそういう場合でも、もともとわからない領域が解消して、明示されたとならないように思われる。いい方を変えれば、もともとわかる領域(あまり実作者の特殊な思考やものの見方、深層世界に立ち入らない部分)が明快なコンセプトと、ごくあたり前の構造化によって、空間をひろげられることがあるかもしれない。が決して、それは、それまでわからない領域の事柄が、わかる領域に変化したということにはならないようである。依然として、わからない部分の容量は変わることがなく、領域の境界線だけが、モノをつくる行為のたびにゆれ動くということである。