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2016-09-17

Quotation #32 / 過去と現在の関係

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アンリ・ベルグソン『物質と記憶』(田島節夫訳、白水社、1999)より引用
Text quoted from “Matière et Mémoire” by Henri Bergson

現在は存在するものであるとかってに定義されるけれども、そのじつ現在はたんに出来つつあるものにすぎない。現在の瞬間は、もし過去を未来から分かつこの不可分な境界の意味に解されるならば、これほど存在しないものはない。私たちがこの現在はあるべきだと考えるとき、それはまだありはしない。またそれは存在していると考えるときは、それはすでに過ぎ去っている。これに反して、具体的な、意識によって現実に生きられる現在を考えるなら、この現在の大部分は直接的過去にあるといえる。可能な最短時間の光の知覚が一秒の何分の一かつづく間にも、無数の振動が生じていたのであって、最初の振動と最後のそれは、無数に分かたれる間隔によってへだてられている。だから諸君の知覚はたとえ瞬間的であっても、計算できないほどたくさんの思い出される諸要素からなっていて、本当は、あらゆる知覚はすでに記憶力なのだ。純粋な現在とは未来を侵蝕する過去のとらえ難い進行なのだから、私たちは実際上過去を知覚するのみである。
したがって意識は、未来へと傾きつつこれを実現しわがものにしようとつとめる過去のこの直接的部分を、あらゆる瞬間にその光で照らし出す。こうして不確定な未来を確定することにひたすら専念している意識は、過去へいっそう遡った私たちの状態でも、私たちの現在の状況すなわち直接的過去と有益な結合をとげる部分には、その光をいくらか及ぼすことができるであろう。他の部分は依然として暗がりである。私たちが、行動の法則である生の基本的法則によってあくまでも位置するのは、私たちの歴史のこの照らされた部分の中である。闇の中に保存されているような記憶のことを考えるとき、私たちが感ずる困難もそこからきている。したがって、過去の完全な保存をみとめることに私たちが反発するのは、私たちの精神生活の方向そのものに由来するわけで、精神生活は諸状態のまぎれもない展開なのであり、そこで私たちが熱心に見つめるのは、現に展開しつつあるものであって、完全に展開を終わったものではない。
こうして私たちは長い回り道をへて出発点にもどる。私たちは、深く異なった二つの記憶力があることをのべた。一方は有機体の中に定着したものであり、可能なさまざまの問いかけにたいして、適切な答えを確実に出すうまくできた機構の総体にすぎず、けっしてそれ以外のものではない。それは私たちをして、現在の状況に順応させ、私たちのこうむる作用をおのずから延長させて、遂行を見ることも初発段階にとどまることもあるがつねに多少とも適合した反応にまで発展させる。それは記憶というよりは習慣であって、私たちの過去の経験を演ずるけれども、そのイマージュを喚起するものではない。いまひとつは本当の記憶力である。それは意識とひろがりをひとしくし、私たちのあらゆる状態が生ずるにつれて、それらを保持し順序どおり配列しながら、各事実にそのまま場所をあたえ、したがってまたその日付をしるし、本当に決定的な過去の中で動くものであて、第一の記憶力のようにたえず再開する現在の中で動くのではない。しかし私たちは、記憶のこの二形態を根本的に区別しながら、その結びつきを示しておかなかった。過去の行動に蓄積された努力を象徴する諸機構を持つ身体の上で、思い浮かべ反復する記憶は宙に浮いていた。しかし私たちは直接的過去以外に決して知覚することがなく、私たちの現在の意識はすでに記憶作用であるとすれば、はじめに分けておいた二項は密接につながって一緒になろうとする。じっさいこの新しい観点から見ると、私たちの身体というのは、まったく私たちの表象と変わることなく再生する部分、たえ間なく現前する部分、というよりむしろ、あらゆる瞬間にちょうど過ぎ去ったばかりの部分にほかならない。それ自身イマージュであるこの身体は、多数のイマージュの一部をなすものであるから、多数のイマージュを貯蔵することはできない。だからこそ、過去の知覚はおろか現在の知覚でも、脳に限局しようとする企ては空想的なのだ。それらの知覚が脳の中にあるのではない。脳こそそれらの中にあるのだ。