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2016-10-01

Quotation #34 / テクノロジー

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福田和也『イデオロギーズ』(新潮社、2004)より引用

複製技術の発達によりあらゆる芸術は、その真正さを保証する「アウラ」(オーラ)を失ってしまった、というところからベンヤミンの議論は出発した。リトグラフ、写真、映画、レコードの発明は、芸術から「今」「ここ」という時と場の一致とその一回性から構成される歴史の基盤を奪いとり、何処においても、何時でも享受し、消費できる一種の商品にしてしまったのだ。複製技術による芸術からの崇高さの剥奪というテーマを、ベンヤミンはボードレールから学んだ。石版版画の発明によって、迅速かつ大量に画像が領布されるようになった十九世紀中葉のパリにおいて、ボードレールはこの技術によって絵画のあり方が根本から転換し、爾後画像は仰ぎみるような芸術品ではなく、刻々の要求にあわせて現れては消える泡のようなもの、つまりは消費すべき物資になっていく事を見抜いた。消費すべき物資となった画像が対象にするのは、まさしくその消費の主体である大衆である。画家は街路に分け入り、自分も大衆の一人となって、大衆のさまざまな姿を映しとる。大衆が表象するのは流行である。髪の形、帽子の形態、ブラウスにつけたフリルの形状といった服装や菓子、アルコールの嗜好の変遷。アブサン、パスティス、シャルトリューズ。かくして歴史は死滅し、流行がとって代わる。かつて英雄の運命に自己の宿命を投射した詩人たちは、自分もまた大衆の一人となって、ガス灯の下でその輪郭をそぞろ歩きする群の中に溶かし込むのだ。フラヌール、つまり、どこに行くという目的をもたず、ただ群衆であるということの歓びを味わうためにだけ、街路を歩み続ける人々。
ベンヤミンはボードレールに倣って複製技術の発達が、芸術の真正さ=歴史の一回性を剥ぎ取り、主体としての個人を群集としてのおぼろげな影の中へ解消していくと考えた。歴史を構成する全体的な見通しが消え、部分や細部やニュアンスこそが本質的になる。芸術作品がアウラを失ったように、人間もまたその主体としての輝きを失った。全体としての歴史や世界を表象する全体的な個人はもう存在はしない。流行のなかを漂っていく人影があるだけだ。ベンヤミンがマリネッティを批判するのは、未来派においてはテクノロジーが人間の主体性を損なうものではなく、まったく逆にそれを拡大し、一種の超人性を獲得するにいたらしめるものと考えられていたからだ。その詐術のただ中で、アウラを取り去られた人間の空虚さを「スター」へと転換せしめて大衆を糾合し、「国民」「民族」といった全体を仮構し、戦争へとかりたてる。
たしかにマリネッティは、群集をかき集め、テクノロジーを賛美し、新しい人間性の拡大、つまり速度や強さ、巨大さを実現するテクノロジーによる人間の経験の拡大と対になった知覚の変質を謳いあげた。だが問題はベンヤミンがマリネッティによるテクノロジー賛美=超人性の謳歌を「所有関係」に結びつけて考察していること、そのような形において問いかえさざるをえなかったことだろう。マリネッティが展開した議論は、イタリア未来派自体が今日なかば忘れられた前衛であり、ベンヤミンに比べればマリネッティ自身が言及される事がほとんどないにもかかわらず、前述したように現在において、日本のみならず世界的にもっとも普及している技術観の基体をなしている。テクノロジーは、能力や感覚を飛躍的に向上させ、拡大し、これまでとまったく異質な、よりよい人間の活動や思考を実現する。このような考え方は、インターネットなどの情報技術を語る上で、もっとも凡庸であるのと同時に憂鬱になるほど一般的なものだろう。マリネッティのスローガンから戦争賛美を取り除いてしまえば、情報革命の賛美者たる今日の先進国の大衆が、情報技術のもたらす未来なり、力なりを信じ、その齎すと約束されている爆発的な情報と画像と超人間的能力の千年王国にむけて突進しているとするならば、それはベンヤミン的視線から見るとどのような光景になるのだろうか。それはやはり、映画におけるのと同様に資本の問題なのだろうか。カウンター・カルチャー的な流れから情報技術を論じる人々が主張するように、ネットワークにかかわる技術が大資本の手に握られているからこそ、無責任でユーフォリックな情報革命論が氾濫し、どん欲と倨傲がネットワークのダイナミズムと化し、「グローバル」という国民国家より画一化された全体を表示しているのか。
資本や「所有関係」ではなく、むしろテクノロジー自体に本質的にこのような加速が含まれているのではないのか。つまりは空虚な個人を、「人格」のもとに、「スター」のもとに、糾合し、断片化された事物を世界として再編していくような力がテクノロジー自体に含まれていないか。