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2016-10-08

Quotation #35 / 魔術と映画

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アントナン・アルトー『貝殻と牧師 映画・演劇論集』(阪原眞里訳、白水社、1996)より引用
Text quoted from “Œuvres Complètes vol.Ⅱ, vol.Ⅲ” by Antonin Artaud

映画には、他の芸術には見つからない、思いがけず不可思議な部分が確かにあるのだ。明らかに、どんなイメージであれ、きわめてそっけない、きわめて平凡なイメージでも、スクリーン上に移し換えることができる。ごく取るに足りない細部、ごく無意味な対象も、それらに固有に属する意味と生命を獲得する。しかも、イメージそれ自体の意味作用による効果、イメージが翻訳する思考、イメージが形成する象徴とは無関係にである。映画は対象を孤立させることによって、それに個別の生命を与える。そして、その生命はますます独立性を増して、対象の通用の意味から離れようとする。一つの葉むら、一本の瓶、一つの手などが、ほとんど動物的で、利用されることだけを求めている生命によって生きる。また、カメラは変形を加えたり、撮し取る事物を思いがけない仕方で用いることもある。イメージが消えようとするときに、思ってもみなかったあれこれの細部が奇妙な力強さをもって燃え上がり、求めていた印象を裏切ってしまうことがある。また、イメージの回転が脳に直接伝える、あの一種の身体的陶酔がある。精神は、いかなる表象とも無関係に感動するのだ。イメージのこの種の潜在力は、精神の奥底に、今日に至るまで用いられていない可能性を探りにいく。映画はとりわけある隠された生の全体を明らかにして、私たちをそれと直に関わらせるのだ。しかし、この隠された生を見抜くすべを知らなければならない。オーヴァーラップの戯れによるよりももっとうまい方法で、意識の奥底に蠢いている秘密を見抜かせる必要がある。抽象的に、あるがままに捕らえられた、生(ブリユット)の映画は、幾つかの啓示にきわめて好都合なあのトランスの雰囲気を微かに漂わせているものだ。物語や表面的な筋立てを語るために映画を役立てるのは、映画の資源の最良の部分を断念し、映画の最も深い目的に逆らうことになる。こういう理由で、映画は、思考に属する事柄、意識の内部を表現するのにとくに向いているのだと私には思われる。そして、映画はその表現を行うために、イメージの戯れよりもむしろより予測不可能な何か、あいだに何かを置くことも代理表現によることもせず、直接的な素材によって思考に属する事柄を復元する何かを用いるのだ。映画は、人間の思考の曲がり角に、擦り切れた言語がその象徴力を失い、精神が表象の戯れにうんざりする正にその時点に到来する。明晰な思考は私たちにとって充分ではない。それは吐き気をもよおすほどに擦り切れた世界を設定する。明晰なものはすぐに理解可能なものであるが、すぐに理解可能なものは生にとっては外皮のようなものだ。このあまりにもよく知られ、あらゆる象徴を失ってしまった生、それが生のすべてではないのだと人びとは気づきはじめている。だから現代は魔術師や聖人にとって好都合な、かつてないほど好都合な時代なのだ。感じとれないほど微かなある実質の全体が具体化し、光に到達しようとしている。映画は私たちをこの実質に近づける。もし映画が、夢や、目覚めている生活において夢の領域に類似するあらゆるものを翻訳するようにできていないのなら、映画は存在しないことになる。映画を演劇と区別するものは何もないことになる。しかし、直接的で素早い言語である映画が生きて栄えるためには、ある種の緩慢で重い論理はまさに必要ではないのだ。映画は次第に幻想的(ファンタスティック)なものへと近づいていくだろう。さもなければ映画は生き残れないだろう。この幻想的なものが実際には現実そのものなのだと、人びとはますます気づいてきているのだ。