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2016-10-28

Quotation #38 / 機知の本性

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アンリ・ベルクソン『笑い』(合田正人、平賀裕貴訳、筑摩書房、2016)より引用
Text quoted from “Le rire” by Henri Bergson

更に論を進める前に、機知(esprit)ということで何が考えられているのかをより仔細に検討しておくこともおそらく必要だろう。なぜなら、機知的な言葉は少なくともわれわれを微笑ませるものであるから、もし機知の本性を深く理解し、その観念を解明することを蔑ろにすれば、笑いの研究は完璧にはならないだろうからだ。ただ、私が懸念するのは、非常に微細なこのエキスは光に曝されると分解してしまうのではという点である。
まずは機知という語の二つの意味、一方は広義の意味、他方は狭義の意味を区別しておこう。この語の最も広い意味では、ある種の劇的な思考の仕方が機知と呼ばれている。機知ある人は、それが有する観念を無情の象徴として扱うのではなく、それらを人格に見立て、それらの話を聞き、とりわけそれらを互いに対話させる。彼はそれらを舞台に上げ、自分自身もわずかながら舞台に登場させる。機知ある人はまた演劇に熱中した人でもある。良き読書家のなかに役者への芽生えがあるのと同様に、機知ある人のなかには何か詩人的なものがある。私が意図的にこの比較を行うのは、これら四項のあいだに苦もなくひとつの対応関係を打ち立てられるからだ。うまく読むためには、俳優の技芸の知的部分を所有するだけで十分である。しかしうまく演じるためには、魂全体で、そして人格全体で俳優でなければならない。それと同じく、詩的創造はある種の自己忘却を要求するが、この忘却に機知ある人が陥ることは通常はない。機知ある人の言動の背後には、多少なりともその人が透けて見える。彼がそこに埋没されることはない。彼がそこに置くのは自分の知性だけだからだ。
それゆえ、どんな詩人も、機知ある人でありたいと思えばそうなることができるだろう。そのために何も獲得する必要はない。むしろ彼は何かを失わねばならないだろう。「何のためでもなく、慰みに」みずからの諸観念を対話させるだけで足りるのだろうから。彼がしなければならないのは、自分の諸観念と諸感情との接触、魂と生活との接触を維持する二重の絆を緩めることだけだろう。要するに、心情によって詩人であろうと欲するのではもはやなく、ただ知性によって詩人たらんとするなら、彼は機知ある人に転じるだろう。