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2016-12-24

Quotation #43 / 知識の社会的束縛

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パメラ・D・シュルツ『9人の児童性虐待者』(颯田あきら訳、牧野出版、2006)より引用
Text quoted from “Not Monsters” by Pamela D. Schultz

加害者たちのセルフ・ナラティヴを文書化するのは、こうした児童性虐待者たちが自分と自分の行為をどのように考えているかを探求するためである。セルフ・ナラティヴには、自己についての評価をおこなうポイントがある。セルフ・ナラティヴは、たんに事実を描写しているのではなく、語り手の体験への認識を反映しているのだ。この認識は、語り手のアイデンティティ——すなわち、自分は何者かという意識——から少しずつ集められたものである。アイデンティティ表現のために使われるナラティヴという形式では、経験が漫然と構造化され、論理的かつ一時的に結びつけられている。しかしながら、ナラティヴの順序は、必ずしも実際の出来事の順序を反映しているわけではなく、むしろ語り手の認識を反映している。したがって、セルフ・ナラティヴが論理的順序で表現されているとしても、一つの状況の客観的事実をそのまま伝えているとは限らない。結局のところ、ナラティヴという形式で表現されたアイデンティティは、道徳的なアイデンティティであり、自らの行為を釈明する役目を果たしている。
言説は、知識を生みだし、広めるために社会的につくられたシステムとして働く。それゆえに、その対象(なんについての知識であるか)と環境(社会秩序——この秩序の中で言説が生みだされ、その知識を広め、さらには、この秩序によって知識が及ぼす影響をたどっていける)の両方の領域を表現する。セルフ・ナラティヴが漫然とした現実を反映するのはこうしたわけである。漫然としない存在を用いて「現実」を理論化することは可能だと思うが、言説はこうした現実を表現するための手段であり、だからこそ、現実は言説によって意味を持つのだ。私の研究は「言説という行為は理解できる現実を生みだす」という基本前提のもとにおこなわれている。漫然とした現実は一つの過程であり、そこから生まれる知識は社会的に束縛されている。
この前提を承認すると、私が研究をおこない、本書を執筆した際に用いた、臆面もなく偏見を交えた方法を受け入れることができる。私は自分を修辞的な批評家だと思っているし、修辞的な研究には必ず道徳的要素が含まれている。本書で取りあげるセルフ・ナラティヴのような修辞の源を研究するのは、それがなんであるかを解釈するためばかりではなく、なんになりうるかを明らかにするためでもある。しかし、この目的はどうしても価値判断に影響されがちだし、どんな研究でもその結論は研究者の考え方に左右される。従来の常識では、人文科学の研究者は可能性を探求し、自然科学の研究者(社会科学者も含む)は事実に重点を置く、とされてきた。しかし、最近では、多くの研究者たち——とくにフェミニスト——が、科学研究は価値判断にとらわれないものだという考え方を否定し、研究者は自分の個人的興味、職業的興味、政治的興味を認識する必要がある、と主張している。たとえば、これらの研究者たちは、インタヴュー・アプローチを実情調査の使命とみなすのではなく、どちらかといえば、力、情動性、対人過程の問題に満ちたコンテクストの中で生じる能動的なかかわり合いとみなしている。その結果として、インタヴューは、協調的なコミュニケーションの事象とみなされ、そこにおいては独自の規範とルールが導きだされる。インタヴュー調査に対するこうしたアプローチは、オートエスノグラフィーと呼ばれ、個人的で微妙な問題——自分の信用を落とすので、普通は秘密にしておくような問題——を探求する際にはとくに効力を発揮する。この観点からすれば感情や個人的な考えは、正当な研究主題といえる。なぜなら、インタヴューをする者とインタヴューを受ける者、その両方の解釈が、漫然とつくられた現実を反映するからである。