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2017-01-28

Quotation #45 / 写真のハードコア

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倉石信乃『反写真論』(河出書房新社、1999)より引用

それでもなお、仕方のなさを振り切ってふたたび、「そんなもんから遠く離れて」と言おう。金村は、「人間的なもの」から遠ざかろうとする抗いの意志がいつしかカメラという機械との同調に過ぎぬ地点へと滑落し、その地点で耽溺してしまうことをこそ否定するだろう。machine と soul は絶対に相容れない。だからこそカメラを携帯するのではなかったか。映像の私有性とは相容れない、カメラの携帯という「違和」を生きながら、カメラ=眼という同化と癒着の等式を徹底して粉砕しながら、痩せて引き締まった写真の還元への感情と風景への敵意だけがどこまでも切り立ってゆきながら、さんざんな風景、眼前のさんざんな風景に、既視感に満ちた何よりもさんざんな風景「論」に、またしてもしょうがない雑言の数々を吐き捨てながら、単なるモノに過ぎぬ異物のカメラで、単なるモノに過ぎぬプリントを、偶発的であると同時に日々の習い性であるかのように作り上げ、飽きるまで、飽くことなく、美術館なら美術館という、中性性を偽装しているが故に現実空間にも増してぬるい閉域に、すっぽりと収まるふりさえ装いながら、次々に、放り投げるようにして、事実それに類するやり方なのだが、次々に撒き散らしてしまうがいい。そこらへんにある鋲で、そこらへんの壁にただ留めておくこと。
そんなことの一切にも、もはや何一つ目新しいことなどないさ、すべてが単に新しいだけだ。新しさに用はない、新しさこそが反動の同義語である、古びてある奴、反動が一番欲しているのは新しさだからな、だがその認識もとうに反動的な新しさの逸話の一つに登録されて久しい、だからこそ、さんざんな写真行為の繰り返しだけが反動の対義語だと言えるのか。繰り返される写真に未来など断じてなく、あるがごときに愛でられ、無きがごとくに悲嘆されることで未来の写真は、つねに事前に消費されている、そんな未来に写真は要らない、絶対に要らないのだ、だから、どうであれ「写真家は写真を撮る」という反芻だけを当面は糧としていればいいのか。それもまた古い子守歌のように聴こえてくる。
いくらでも取り返しのきく写真の束が投げ捨てられるように羅列され、終始取り替えられる余地はある、だがほんとうはそんな余地はない、写真のプロセスは選択と決定の反復に委ねられつつも、同時に写真家主体とは隔絶した残酷な時間だから、選択の絶対性を標榜するにせよ、選択の自然な他律性に跪拝して就くにせよ、その如何に関わらず、どうであれ結果的にはどうしようもなく取り返しのつかない事態が出来するのだ、と言えばいいのか。ただ、そうやって、いまや既に提示されてしまった写真にあって、写真的視覚の「瞬間」はなお、間違っても虚構だの幻想だの無意識だのといった寝ぼけたストーリーによっては断じて編成されてはいない。逆に、「瞬間」(instant)は、かかるストーリーを発効し持続させもする「契機」(moment)ではない。ウラジーミル・ジャンケレヴィッチの弁別によれば、instant は moment の彼方にあるとされるが、同時に instant としての瞬間とただのそこらへんにある現実との紐帯は切れていないと言われねばならない。だがいったい、どこでどう繋がっているのだろうか、写真はつねに現実を通り越しながら、積み残しながら、同時に、持ち越してさえきたのであってみれば。
《Keihin Machine Soul》の提示する「人間的なもの」への苛立ちは、無論人間的なものだ。金村修が焦燥と覚醒を携え、探索して止まないのは写真を還元することによって獲得されるべき「ハードコア」なのだが、この引き算によって消去されるのは、人間的なもの自体であるよりもむしろ、人間的なものを人工的に演出する諸形式の方だ。それにしても、写真のハードコアは、どこいあるのか。たぶん写真の内側と外側のどこかにあって、境界という「虚構」にはない。もはや美しい余白は使い尽くされているのだ。